能動性を失ったとき、人は老いる
病院の中で高齢者の中で暮らしていると、高齢者とは言えさまざまである。その中で感じたこととして、老いとは能動性を失うことなんだな、と強く感じる。もしかしたらあまりにも当たり前のことなのかもしれないけれど、自分も老いを意識する年齢になって、老いを意識せざるを得ない病気になって改めて強くそう思うので、いちおう自戒のために書いておこう。
能動性が低下した人は、ずっとテレビをつけて眺めている。治してほしい、早く退院したいとは思っているだろうけど、リハビリを嫌がって、できるだけ誰かに何かをしてほしがっている。昼間もずっと横になって寝ているかテレビを眺めていびきをかいている。何もしてないからお腹が空かず食欲もわかず、食事をせずに栄養剤を飲んでいる。昼間いびきをかいてベッドに横になっているが、夜は眠れないと言ってナースコールを押して眠剤が欲しいと訴えている。痰を絡めてせき込んでいる人に向かって、うるさい!と文句を言う。
能動性を保っている人は手紙を書いたり、自分で決めた歩数を目標に歩いたり、自分でできることはできるだけ自分でしたがり、自分でルールを決めたリハビリに取り組んでいる。昼間は何かしらして起きていて、夜中にいびきをかいて寝ている。
高齢者の定義の年齢基準を引き上げるとかなんとか議論があるみたいだけど、行政の話、国のお金をできるだけ高齢者に使わなくて済むようにしたいというだけのお話だ。年齢はただの数字。
同じ年齢であっても、老いた人間と、まだ老いてない人間がいる。誰かが決めた年齢基準で自分が老人だと思うような人間がいたら能動性も主体性もなさすぎだ。後期高齢者はいても後期老人はいない。老人か、老人ではない人間か、どちらかだ。
周りが自分を老人だと思うかどうかは知ったことではない。せめて自分ではまだまだ自分は能動性を失っていない、死ぬまで老いないぞと反骨心を捨てない人間でありたいものだ。